国指定史跡 杉山城 (嵐山町)

杉山城 

別名 初雁城は城マニアの人から言わせると戦国山城の中でも模範になるような名城のようです。
もちろんその素晴らしさが認められ、菅谷館跡(嵐山町)、松山城跡(吉見町)、小倉城跡(ときがわ町・嵐山町・小川町)とともに「比企城館跡群」として 国指定史跡になっています。
とは言っても、戦国時代の山城ですから姫路城や熊本城のような立派な天守が現存するわけでもなく、遠目で見た感じは写真のようにただの小山です。

ちなみに右にある白い建物は玉ノ岡中学校でその左下が杉山城跡の入り口になる積善寺

杉山城基本情報

所在地:埼玉県比企郡嵐山町杉山雁城654番地
国指定史跡:平成20年3月28日指定
遺構:曲輪・土塁・空堀・虎口・馬出・井戸
アクセス:東武東上線武蔵嵐山駅下車徒歩約3~40分
関越道嵐山小川インターチェンジより県道296号にて
駐車場 臨時駐車場アリ 
積善寺HP http://www7.ocn.ne.jp/~shouden/sugiyama.htm にもお寺のPが利用出来ると書いてあります。

杉山城跡入り口

玉ノ岡中学校へ登っていく手前に杉山城跡 大手入り口の看板があります。

積善寺(しゃくぜんじ)

国指定の史跡「杉山城址」の門前に位置し開山は1571年と伝えられるのが積善寺です。
所在地:埼玉県比企郡嵐山町杉山600
杉山城へ行く場合の駐車場はこちらのお寺に置かせていただけるようです。
特に此処から先は私舗装なので崩れる恐れもあります。



注意事項:
杉山城跡はすべて私有地です。公開は地権者のご理解によるものですので、見学に際しては必ずマナーを守って下さい。
と看板が出ています。
積善寺裏手からの上がり口

杉山城出郭(でぐるわ)

積善寺の右手、玉ノ岡中学校方面から登って行くとスキーのゲレンデのような斜面に出ます。
ここが大手口の東側下に配置されている出郭(でぐるわ)で上部が大手口。

出郭の案内板 コスモス畑になっていました。
大手口にあった杉山城跡説明板
国指定史跡
指定 平成二十年三月二十八日
杉山城跡
この城は戦国時代の築城と推定される典型的な山城です。総面積は八ヘクター ルに及び、山の高低差を利用して巧みに十あまりの郭(くるわ)を理想的に配置しています。まさに自然の要害と呼ぶにふさわしい埼玉県でも屈指の名城と評価されてい ます。
現存する遺構の保存状態も非常に良く、複雑に入り組んだ土塁や堀によって構成される城構えには当時の高度な築城技術が偲ばれます。
「馬 出し」(うまだし)や「桝形」(ますがた)の塁線を屈曲させて構える「横矢掛り」の多用は、その典型とされるものです。また、城の立地についても北方に越畑城、高見城と連絡し、西方全体に鎌倉街道を見下ろすという絶好 の条件を備えています。当時の社会情勢から判断して松 山城と鉢形城とを繋ぐ軍事上の重要拠点の一 つであったと考えられます。築城年代や城主名等に不明な点も多いですが、地元では松山城主上田氏の家臣、杉山(庄)主水の居城と伝えています。
こ の城跡はすべて私有地であり、地権者のご理解とご協力によって公開されているものです。文化財保護にご理解いただき利用、見学をしていただくようお願いい たします。
平成13年3月 嵐山町教育委員会




屏風折り

南二の郭 東虎口


玉ノ岡中学校方面を望む
本郭 南虎口
杉山城址
急斜面です。

説明板
国指定史跡 杉山城跡
平成二十年三月二十八日指定

この城は、室町~戦国時代の築城と推定される典型的な山城である。総面積は七.六ヘクタールにも及び、急峻な丘陵を巧みに利用して十余の郭を理想的に配している。まさに自然の要害と呼ぶにふさわしい県内でも有数の城である。現存する遺構の保存状態も非常に良く、複雑に入り組んだ土塁や堀によって構成される城構えに当時の高度な築城技術が偲ばれる。
また、城の立地についても、北方で四津山城・高見城・越畑城に連絡し、南方に鎌倉街道を見下して、その遠方に小倉城を臨むという絶好の条件を備えている。当時の社会情勢から判断して、松山城と鉢形城を連絡する軍事上の重要拠点であったと考えられる。
築城年代や城主名等に不明な点も多いが、一説には、松山城主上田氏の家臣杉山(庄)主水の居城と伝えられている。
昭和六十一年三月
埼玉県教育委員会
嵐山町教育委員会




馬出郭

木橋


訪問日2008年8月19日

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杉山城跡付近の地図


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1 件のコメント:

ky さんのコメント...

最近は文献上戦国末期まで使われているのが確実なのに、遺物は16世紀前半止まりの「逆杉山城」事例ばかり増えちゃったようですね。また案内板を書き直すことになるんでしょうか。