吉見町 松山城址
平成20年3月28日付けで、菅谷館跡、杉山城跡(嵐山町)、小倉城跡(ときがわ町)、松山城跡(吉見町)が、比企城館跡群として国指定史跡に指定されました。市野川の蛇行に突き出した形で標高約40mの高台に松山城はありました。
埼玉で言うと高台というより立派な山です。
説明板より
史跡松山城跡
この城跡は、市野川が形成した広大な低地に突き出た丘陵の東端に築かれており、戦国期に幾度もの攻防戦が行われた北武蔵地方屈指の平山城である。現存する城跡は当時の姿を良好にとどめており貴重な文化財である。
市野川に突き出た部分から本丸、二の丸、春日丸、三の丸が南西から北東に向かって一直線に並び、その両側に多くの曲輪や平場をもっている。また、兵糧倉跡や物見櫓跡なども残されている。
城の歴史は古く、古代にさかのぼるとさえ言われるが、一般的には室町時代初期の新田義貞陣営説、応永年間初期の上田左衛門尉築城説、応永23(1416) 年ごろの上田上野介築城説などがある。
しかしながら、城郭としての体裁を整えたのは、15世紀半ば太田氏が江戸、川越、岩槻の各城を築いた時期に近いものと思われる。
この城が天下に知られたのは、今から約450年前の天文年間から永禄年間のことであり、城をめぐる上杉氏、武田氏、北条氏の争奪戦は有名である。のち豊臣勢に攻められて、天正18(1590)年に落城した。歴代の城主上田氏の滅亡後は松平家広の居城となったが、後を継いだ弟忠頼は慶長6(1601) 年浜松に移封されたのを最後に廃城となった。
大正14年に県指定史跡にとなっている。
県道沿いに面した城址の登り口から急坂をせっせと登ると、今でもしっかり残っている空掘などが見れます。 帰りは北側の急斜面を降りていくと岩室観音のところに出ます。 写真だとイマイチ急斜面度が伝わりませんが、ここから松山城跡まで登って行くのは容易じゃありません。
松山城跡基本情報
所在地:埼玉県比企郡吉見町大字南吉見字城山アクセス:
東武東上線東松山駅東口から「東松02系統:免許センター」ゆきバス5分「百穴」バス停より徒歩2分
関越道東松山ICからクルマで15分程度。
駐車場:吉見町町営百穴駐車場(無料)
埼玉県道27号東松山鴻巣線(松山街道)沿いに松山城跡への登城口があり、クルマも1~2台停められますが百穴駐車場を利用したほうが無難です。
岩室観音
東側からも登り口があります。(駐車場無し)
民家の裏の細い山道を登って行くと
三の丸跡に出ます。
三の丸跡から北部の眺め |
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